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石鹸作りの世界的歴史5







ソープボイラー

植民が進むにつれ、通商のための石鹸作りはどんどん広まってゆきました。ソープボイラーと呼ばれた石鹸の通商業者たちは、石鹸を作りそれを売っていました。石鹸もろうそくも牛脂をメインの材料として作れたため、石鹸とろうそくの両方を売っている人がたくさんいました。初のソープボイラーがジェイムスタウンに定住にやってきたのは1609年でした。

イギリスでも今、当時の石鹸の通商があったことが分かります。1630年にマサチューセッツのドーチェスターにたどり着き、、1649年にはボストンの高速道路の測量士として選ばれたクリストファー・ジプソンもソープボイラーでした。政府の一員として選ばれるくらいでしたので、彼はソープボイラーとしてお金持ちであったことが読み取れます。

カリの輸出

植民地時代のアメリカで、石鹸作りとカリや炭酸カリウムの製造は関係が深かったです。炭酸カリウムとは、精製されたカリのことで、産業でよく使われていたために、植民地のための重要な輸出物の一つでした。精製されたカリは、石鹸作りだけでなく、ガラスを作るのにも使われ、植民地、ヨーロッパの両方の地で使われていました。カリは、アメリカの植民地で作られて、イギリスに輸出されてお金と取り替えられる数少ないものの一つで、輸出物として非常に価値のあるものでした。他の植民のイギリスへの輸出物のほとんどは、西部インド諸国の中の英国の植民地からわざわざ取り入れられたものでした。この貿易方法は植民地時代、三角貿易と呼ばれていました。

18世紀の終わりには西海岸への移動の傾向とともに都市は大きくなり、木材の供給がどんどん少なくなっていき、カリの製造は減少してゆきました。それでも19世紀の終わり頃までは、カリはまだアメリカのフロンティアで重要な産業として残っていました。炭酸カリウムはアメリカの輸出物の主要物であったのに変わりはなかったのです。ルブロンの方法で苛性ソーダが塩水から安く簡単に入手できるようになると、アメリカでカリの精製の重要性はどんどん減ってゆき、しまいにはなくなってしまいました。

フランスのニコラ・ルブロンが1790年に海水から取れる塩で炭酸ナトリウムの摂取ができることを発見してからは、苛性ソーダが入手できるようになり、石鹸を作る産業ではこれが大きな革命となりました。苛性ソーダを石鹸作りに用いることで、わざわざ石鹸の品質を変えてしまう塩を使わなくても固い石鹸ができるようになっただけでなく、今までやっていた木を切ってそれを燃やし、それをろ過して木の灰から水分を蒸気させ、さらに余分なものをかまで焼き落とす、という困難な作業を一切する必要がなくなったのです。

苛性ソーダを石鹸に使うアルカリとして使われるようになって、石鹸作りがよっぽど楽になり、さらに多くの人に石鹸が化粧石鹸として使われるようになり、入浴の人気も復活し、19世紀には石鹸の消費が思い切り上昇しました。この頃にはビクトリア時代のように石鹸の使用が親しまれるようになりました。そして、今の石鹸の基礎がアメリカで成り立っていったわけです。



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